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 コラム 

2014/9/11   「哲学と宗教」
 
 最近、哲学がマイブームなのですが、この間見た「哲子の部屋」というNHKの番組で「哲学とは何なのか」という長年の疑問が払拭されました。

 哲学とは「新しい概念を作り出すこと」。

 これはジル・ドゥルーズという人の言葉です。ちなみに概念とはモノの見方、考え方のこと。

 番組の中ではデカルトが作り出したX軸、Y軸の「座標」。それからフロイトの「無意識」など、新しい概念の例を紹介していました。そのことを知らない時と知った後では視点がガラリと変わる。そんな物事を探すことが本来の哲学なのかもしれません。

 科学、地学、物理学など、文字を見れば何の学問なのかわかるものと違って、「哲学」は字を見ただけで「こういうもの」というのが分かりにくい学問です。なんとなく、頭の良い人じゃないと志してはいけないし、知れば知るほど難解になる・・・というイメージでした。実際、難解な文章の本が多いのも敷居を高くしている原因ですよね。私も以前読んでみようと手にとった本がちっとも頭に入ってこなくて最初のページで断念したことがあります。でも、新しいモノの見方や考え方を教えてくれる学問だと思うと興味がわいてきたのです。

 フロイトが精神科医であったことは知ってましたが、デカルトが数学者だったとは知りませんでした。デカルトと言えば「我思う ゆえに我あり」しか知らなかったけれど、色んな哲学者がどのような新しい概念を打ち出してきたのか、知りたくなりました。そんなわけで哲学の本を読み漁っているのですが・・・今はニーチェについての本を読んでいます。

 実は今月のトイレに飾っている言葉はニーチェの「あなたが出会う最悪の敵は いつもあなた自身であるだろう」と言う言葉なのです。名前はよく聞くけど、この言葉を言った人ってどんな人なのだろう?と興味を持ったんです。なんとなく、こういう言葉を言う人はきっと素晴らしい人生を送った人なのだと思っていました。

 でも、自分の想像とは違う人生でした。

 まだ1冊だけなので、他にもニーチェについて書いている本を読んでみたいと思うのですが、後期は狂気の人となってしまったようです。精神的に崩壊.したという説と脳梅毒とか脳腫瘍などの病気が原因だという説とあるようです。詳しくはわからないですが、いずれにしてもなんだか悲しいですね。

 ニーチェは世間を冷静な目で見ていました。批判的だと言われています。民衆の多くは自分が善人だと疑わない。そして、周りの人が自分を欺くなど疑いもしない。自分が間違っているかどうかは周りのみんながどう思っているかということで判断する。だから簡単に意見を乗り換える。すぐに自分たちが弱者であり、強者は自分たちを保護するべきだと権利を主張する反面、強い者たちに嫉妬している。そんな群集心理というか、集団催眠状態というか、自分で考えもせずに右往左往している群集に苛立ちを感じていたようです。

 でも、ニーチェは自分が人から尊敬されること、理解されることを求めていることにも気づいていて、繊細で誠実だからこそ、そんな自分にも嫌悪感を感じていたのだと思う。自分も結局はそういう群集の一人にすぎないのだと気付き絶望したのかもしれない。

 私は最近思うのです。私も含め、人間は残酷で自分勝手な生き物で競争が好きで自分が可愛いのだと。一歩間違えば暴走してしまう生き物なのだと。もちろん人間には優しい面もあるけれど、暗く残酷な面も持っているということを認めていかなくちゃいけない。陽があるから陰がある。陰にふたをして陽だけを美化してはいけないのだと思うのです。陰を隠すのではなく、しっかりと認識して管理していくことが必要なのだと思う。

 テレビで報道されている殺人事件などを見ていると、かつては「恐ろしい。信じられない」と他人事でしたが、今は一歩間違えば自分にも起こりうることなのかもしれないと思うようになりました。殺人犯と自分は同じ人間なのです。細胞的にみれば何も変わらない。そういう残酷で残虐な遺伝子を持っているのです。だからこそ、自分の考えを客観的な目で見ることが必要なのだと思います。残酷なことを考えないようにするのではなく、なぜそう考えるのかを。

 今、日本は平和です。でも、それもたかだか70年程度じゃないですか。日本が戦争していないのは。人を殺すことを正当化するために「お国の為」と思い込むことが出来る人種なのです。それが尊いものだと周りが言うから「そうなのだ」と信じてしまう。従わなければ「非国民」だと非難され投獄されるからというのもあります。恐怖で人を操るような政治が正しいわけないのに、そんなことにも気づけない。真面目で素直で優しい人種でもあるのですが、悪い方向へ扇動される危険性もあることをみんな認識すべきです。

 与えられた情報を鵜呑みにして、自分で考える力を失いがちの私たちに「哲学」は考えることの大切さを教えてくれるものが多い気がするのです。宗教は「神の言葉は正しい」と盲目に信じさせるものです。盲目に信じるからこそ、書かれている言葉を都合の良いように解釈してしまう危険性があると思うのです。自分の神を正当化してしまう。

 自分の信じる神が正しいのだから、他の宗教は間違っていることになる。間違った人生を遅らせるのは可愛そうだ。間違った情報を与えられている民衆を救わなくてはならない。そのためには多少の犠牲は必要なのだ、神は赦してくださる・・・そう思って聖戦と言う名の戦争が始まるのです。

 本当に神様がいたとしたらそう言うと思いますか?宗教は考える力を奪ってしまうもののような気がします。私は無神論者なので、人間がいう"神″という存在はいないと思っています。何らかのエネルギーは存在すると思いますが、そこには人格もなければ、感情もないものだと思っています。だから誰の上にも平等に死は訪れる。いい人だから長生きするとは限らないし、いい人が殺されることもある。

 もし神が本当にいるのなら、神とはなんて自分勝手で残虐なのだろう・・・と思うのです。人間と少しも変わらないではないか、と。神とは人間が都合よく物事を解釈するために創り出した産物なのではないか?と、私は思っています。ニーチェも「神は死んだ」という言葉を残しています。私も、もう神は必要ないのではないかと思うのです。科学が進歩し、かつては神の仕業としてしか理解し得なかったことがだんだんと解明されつつあるこの世界に教育は必要でも、神はもういらないのではないでしょうか?

 この世に絶対正しいというものは存在せず、常に状況によって変化していくものだと思うのです。だからこそ、自分の考えていることが果たして正しいのかどうか、色んな側面から考えることが必要なのではないでしょうか?何かを盲目的に信じて本質を見失ないように、客観的な目を養うために今は哲学の本を読んでみたいのです。その概念が正しいのかどうかしっかりと自分の心で考えてみたいのです。
 
 秋の夜長に・・・(といっても私は毎朝4時起きなので、夜遅くまで起きてないですが 笑)もっといろんな哲学の本を読んでみたいと思います。 合掌