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 コラム 

2022/10/21 「失敗から学ぼう」

  2022年もなんとあと数か月となってしまいました!

 今回は 「失敗の科学」を読んで学んだこと気付かされたことを紹介します。

 最近は何か問題が起きるとすぐに「責任をとるべきだ」と寄ってたかって特定の人を一方的に攻め立てる風潮がありますし、特に日本は武士に二言はないとか、責任を取って切腹するといった自分の言動が間違っている場合や抵抗するために命をもって周知させようとするという行為が美しいとさえ思う民族だと思うんですよね。

 問題を起こした有名人が社会復帰出来ないような、それを許さない空気というか、目に見えてわかるくらい反省していないと一方的に叩かれたり炎上したりすることが多く見受けられます。

 失敗の中にも不注意からくるもの、慢心からくるもの、意図的なものなど色々あると思いますが、それをよく検証もせずに結果だけを見て責めたり決めつけたりしていることってあると思います。

 著者は膨大な取材を経て、映画やドラマを見ているかのようにわかりやすくミスが起きた実際の事件や出来事からデータも交えて何を学ぶべきなのか教えてくれます。

 表紙に「なぜ10人に1人が医療ミスの実態は改善されないのか? なぜ、燃料切れで墜落したパイロットは警告を無視したのか? なぜ、検察はDNA鑑定で無実でも有罪と言い張るのか?」という言葉が書かれているのですが、これだけで読んでみたい!面白そうって思ったんです。 

 何件か実際の医療ミスの例や冤罪事件が載ってましたが、権威のある医師の間違いを看護師や部下は指摘できなかったり、したとしても聞き入れてもらえなかったり、そのせいで尊い命が失われてしまったケースがあったり。DNA鑑定で犯人は別にいるとわかっていても、頑なに再捜査せずに犯人扱いする警察の話など、とても興味深いお話ばかりでした。もちろんそうい人ばかりではないと思いますが・・・。

 航空事故などが起きると、航空会社以外の独立した調査機関や組合や行政機関などが事故機の残骸や証拠をくまなく調査するそうなので、改善され、今では飛行機事故などはほとんど起こらないぐらい安全なものになっているけれど、まだまだそういう体制が整っている会社や病院や機関は少ないのでは?と思います。

 政治家なんて不祥事が起きた時に隠そうとするばかりで、どうしてそういう問題が起きてしまったのか公にせず秘書のせいにしてうやむやにしちゃったりしますしね・・・

 いじめだって、なぜ悪質ないじめを隠蔽してしまったのか、とか、どうすれば自殺するまで追い込まずに済んだのかということをもっと検証するべきだと思いますし、私は起こりうるものとして考えるべきだと思っています。
 
 今も昔もいじめはありました。私だって気が付かずに加担していたこともあったし、いま思えばあれっていじめといえるなぁって思う行動をしていたこともあったと思いますし、私もいじめらしき目にあったこともありました。ただ運よくそれが事件に発展しなかっただけであって、そういうのは本当に周りに普通にあることだと思います。

 失敗は起こるものとして、起きた時にちゃんと検証するべきですが、起きてはいけないものだから、見なかったことにしたり、都合よく解釈してみたりして、隠蔽するようになってしまう。

 特に優秀だとされる高学歴であればあるほど、自分の間違いを認められなくなり、自分の都合の良いように解釈をつけたり、事実を無視してしまったり忘れようとするそうなのです。自分が思っていたほど有能ではないと認めるのが怖いんです。

 それでオウム真理教の幹部は高学歴の優秀な人が多かったなぁということを思い出しました。なんで、優秀なのにあんなおかしな教祖に騙され、サリンをつくって多くの尊い命を無差別に奪うことが出来たのか・・・自分が優秀だと思いたいから、都合の悪い真実から目を背け、都合の良いことだけ見るようにして、ハルマゲドンなんて起きなかったし、宙に浮くこともできなかったのに事実を無視して更に盲信していって、事実を作るためにサリンをばらまくことになっていったと思うのです。

 もし、自分が間違っているかもしれない、と気付き失敗したことをちゃんと認められたのなら起きなかった事件だと私は思います。

 今の世の中は失敗を恐れて行動しない若者や失敗したくないから挑戦しないせいで成長も出来ないという人が多く見られる気がします。引きこもりもそう。真面目や優秀だと言われた人の率が高いのは失敗して挑戦するのが怖くなり何もできなくなってしまったからだと思う。

 もし、優秀な人だって誰もが失敗するのだから、失敗したっていいし、失敗から学んで成長すればいいんだよっていう世の中だったら・・・引きこもりも減るだろうし、自殺も減ると思うのです。

 問題が起きた時に誰かに責任を負わせるのではなく(もちろん法に則って罪は罪として、ということは原則ですが)、問題点を共有し、どうするべきだったか考えることが必要であって、責めたり辞めさせるだけでは問題は解決しない。間違いがあったときに相談できる環境づくりが必要なのであって、誰かをやり玉にあげたり、生贄を差し出したりするのではないと思うのです。

 自分の思考や行動に矛盾があるときに生じる不快感やストレスのことを「認知的不協和」というのだそう。

 信じてる宗教がなんかおかしいと思っていても、「国がわざと情報を捻じ曲げて伝えている」とか「自分がもっと頑張って布教しないといけないのだ」とか「お布施をしなければいけない」とか「自分の心が汚れているからだ」とか認知的不協和を埋めようと都合よく解釈して正当化して思い込んでしまう。

 人は失敗や好ましくない出来事に対すると「非難」してしまう生き物なので、誰の責任かということを追及してしまう傾向がある。だから非難を恐れて人は失敗を隠してしまう。

 それでは進化も進歩も出来ない。だからと言って、失敗から学ぼうとしても、それに関わる人の心の問題も大きい。

 失敗したときの反応で反対に投げやりになるというか「自分は馬鹿だから」とか「こういうの苦手だから」という人もいますよね。そういう人は才能や知能や性格は生まれつきでほぼ変わらないものだと思っているので、こういう人は固定型マインドセットの人といい、失敗から学ぶ人っていうのは才能や知能や性格は努力次第でいくらでも伸びると思っている、成長型マインドセットの人というのだそう。

 それぞれ失敗の受け止めかたに違いがあるんです。固定型の人は失敗を「自分の才能がない証拠」と受け止め、成功型の人は失敗を自分の力を伸ばす上で欠かせないものとして自然に受け止めているそう。

 なので、環境づくりも大切ですけれど、思考がどっちなのかによっても対処方法が変わってくるのかもしれないですね。引きこもりやいじめに合って自殺してしまう人は「固定型」の人なんだと思うので、それは違うということを教えないといくら失敗から学ぼうと言ったとしても非難としてとらえられてしまう可能性があります。

 そして炎上させたり、人を非難ばかりしている人の思考も固定型なんだと思います。自分の可能性は少ないのだから、誰かを落とすことで自分が上がったつもりになるために必要な行為なんだと思います。もし成長型の考えならばそんなことをする時間がもったいない・・・本の一つでも読もうって思うだろうから。

 私も昔は結構固定型の考えだったので、間違いを指摘されたら傷ついたし、反抗したり、怒りが湧いていました。才能がないって言われてるって思っていたからなんですね・・・。何かに挑戦して出来ないと自分は不能なんだと認めることになるって失敗を恐れてました。

 でもヨガを始めてから徐々に成長型に変わったので、失敗しても学ぼうと思えたり、出来ないことがあっても本当にやってみたいと思ったら、恐れずにどんどん挑戦していけるようになりました。でも間違いを指摘されると・・・まだちょっと怒ってしまったり、傷つきますので、まだまだですけど。

 私は失敗は挑戦の証だと思っているし

 失敗は学習できるチャンスだと思います。  合掌